シン・ゴジラがみせてくれたのは、何だったのか【破壊、そして再生】
前回に続き『シン・ゴジラ』独断考察感想をお送りします。
にしても、残念でしたね。あ、もちろん凱旋門賞っすよ! 流石ライアン・ムーアの騎乗だけある。だって、あんなに前が空かないドバイシーマクラシックで、ジェンティルドンナをぶち抜かせた男ですよ?
まあ、秋クラシックは始まったばかり。後半重賞レースも楽しんでいきましょう♪
さてさて、本題に入ります。
くどいようですが、
※※※そもそも、鑑賞済みの方を対象、もしくは今の時点で見に行く気ないし~、ネタバレかもんwwという方にしかオススメできない記事です。おいおい! ぬるっとネタバレすんなよ⁉ となられる方は、自己責任でお願いします。※※※
一回目の鑑賞から、もう頭の中を占めるのは『シン・ゴジラ』のことばかり。二回目の鑑賞を二週間後に友人と約束していたその頃、実はすごく近所で上映していたことをたまたま知りました。「あ、ちょうどレディースデーあるし、1100円ならいいか!」とフライングで、一人で見に行くことにしました。
そう、1100円だから見に行こうと思っていたんです。なのに気付いたら、ちょっと離れた場所でやっている4DX上映を予約してたんです……。んんん?(^_^)2100円???
折角見に行くなら、通常上映じゃなくて、シンゴジと相性がいいと評判の4DXで見たくなったんです! 欲が出たんです!!! ほら、普通に見るより、+300円だよ? お得、お得。
【鑑賞二回目】
期待通り、アトラクションのようなエンタテイメント性と、作品の世界にいつの間にか没入してしまう感覚によって、より純粋に『シン・ゴジラ』を楽しむことができました。
前回はとにかく興奮して、脳内が(大変だ! 大変だ!! なんか、わかんないけど、大変だ!!!)と混乱するばかりでしたが、数日経ってから、心に留まり続けるセリフが浮かんできました。
赤坂先生のセリフで出てくる、矢口を評した
「臆することなく、使えるものは何でも使う」というものと、
「スクラップ アンド ビルド」。
二回目の上映では、そのセリフを胸に鑑賞しました。既に何が起きるかストーリーがわかるからこそ、驚きがないけど、最初より泣いてしまう場面が増えました。ああ、この人小憎らしいけど、いなくなってしまうんだよな、とか、この時はあんなことになるなんて知らないんだよね、など。
一人鑑賞のいい所を活かして好きなだけ泣きました。そうして鼻水啜りながら、さっきの赤坂のセリフを胸に抱きながら見ていると、これは、「なぜゴジラが出現したか」よりも、「ゴジラによって『破壊』された世界」が大事なのでは? と思い始めました。
理想実現のためであれば、「使えるものは何でも使う」矢口と
あくまで「確定要素」のみで物事を考え、最善の方法を選択する赤坂。
二人はもちろん真逆のタイプのため、ぶつかります。しかしそれは、怒りや嫉妬からくるものではなく、二人の存在がなければ「破壊からの再生」は成し遂げられないからではないでしょうか?
第一形態(蒲田くん)襲来後、被災地を訪問する場面で、
「上陸からたった2時間強でこんな……(中略)初期対応が遅れたせいで」と肩を落とす矢口に対し、赤坂は
「最善は尽くした。自惚れるな矢口」
と厳しく一蹴します。
この時点では、赤坂にとって矢口は、まだまだ甘い、指導が必要な後輩議員でした。それが多国籍軍による核攻撃が閣議決定された時には、変化が見られます。
核攻撃を止めて、ヤシオリ作戦を先行させてもらえないかと詰め寄る矢口に、赤坂は
「夢ではなく、現実を見ろ(中略)この国には今、同情と融資が必要だ」と返します。夢=ヤシオリ作戦は『虚構』であり、同情と融資は『現実』。ここにもこの作品のキャッチコピーである、もう一つの『現実vs虚構』の構図が存在します。だけれど、赤坂もその現実を喜んで受け入れているわけでは決してない。里見総理が閣議決定内容を受理しようとする場面では、目を赤くして痛みに耐えた表情で、本当によろしいんですか? と問います。そして今までの彼であったら口にしなかったかもしれない「そろそろ好きにされたらいかかでしょうか?」と提言します。これは彼自身の変化と、矢口の『理想』に賭けたいという彼なりの、協力だったのではないでしょうか。
先述のシーンで矢口が『ヤシオリ作戦』の有用性を訴えると、少し挑戦的な微笑で「お前のプランには、まだ不確定要素がある」と言います。これは逆説的に、早く不確定要素を取り除いてくれ、と矢口に父性を求めた発言とも取れます。この国を核から守ってくれ、と希望を託したのです。
この二人のラストシーンで、赤坂は「スクラップ アンド ビルド」で成長してきた国だ、折角壊れたのだから、新しく作り変えるさ、と矢口に語ります。きっと彼らしく、現実的に一つ一つ不確定要素を取り除いて復興させていくのでしょう。米国にも「危機をも日本という国を成長させるようだ」と呆れとも感嘆ともとれる評価をされるくらいですから。
しかし、この『再生』には、その前に多くの犠牲と痛みを伴った『破壊』がなければ、できません。その破壊をなんとか食い止めようと、理想に奔走したのが主人公矢口蘭堂でした。もしこの役割が逆であれば、東京には核兵器が落とされ(それもゴジラに効いたかは不明です)、あまりに多くを失った日本で、理想主義の矢口は役に立たなかったかもしれません。この二人が、この役割と関係性だったからこそ、あの『共存』という道が拓けたのだと思います。
話が逸れますが、私はこの『破壊、そして再生』というキーワードに、ジブリアニメ映画『もののけ姫』が重なって見えました。私が子供の頃に衝撃を受け、人格形成にも影響を与えたんじゃないと思うくらい大切な作品です。
『もののけ姫』は自然破壊によって怒れる神々と文明の豊かさを求める人間の闘いを描いた作品です。この作品でも『破壊と再生』が描かれ、最後は神の死んだ自然と人間が共存の道を迎えます。
私個人の見解ですが、
矢口蘭堂は「森と人、共に生きる道はないのか!?」と理想のために奔走する主人公アシタカ
赤坂秀樹は自ら神殺しをしてしまうも、ラストシーンで「ここをいい村にしよう」と考えを改めるエボシ御前
ゴジラは、殺生与奪の力を持ち、世界を破壊した後新たな芽を吹かせて消えていくシシ神
に見えてきました。
同じく「破壊と再生」をキーワードに持つ作品に『裏庭』(梨木香歩著)という、私にとって最も大切な小説があります。これら全ての作品に共通しているのは、「痛みを伴った傷でなければ、何も変わらない」ということだと思います。
話をシンゴジに戻します。矢口と赤坂。この二人の存在こそが、太古から続く日本の原動力なのかもしれないな、と思いました。日本に限った話ではないかもしれません。世界も一個人もみんな、痛みを伴う破壊を経て、やっと再生して新しく成長できるのだと思います。
矢口はヤシオリ作戦の前線に立つ直前、泉や志村に止められた時、
「十年先も国を残すことの方が大事だ」
と返します。きっと赤坂は核攻撃が決まったその時、十年以内に国を立て直すことを考えたと思うのです。どちらも考えていることは、憂国。ただタイプとやり方が違うだけだけど、どちらの存在も必要なのです。
〈鑑賞二回目まとめ〉
真逆なタイプでも願いが同じ矢口と赤坂、二人の存在こそが危機を救った
痛みを伴う破壊からしか、成長と再生は生まれない
今回の鑑賞後、頭の中で『もののけ姫』と紐づくとは自分でも驚きました。きっとこういうテーマが私のストライクなんでしょうね。
最後に、ゴジラが残した除染作用の可能性について安堵の笑みを漏らす尾頭さんは、もののけ姫の作中で一番好きなセリフ、おトキさんの「生きてりゃなんとかなる」に通じる、希望を見せてくれたなと思いました。
次回こそ友人との鑑賞後感想です(笑)。
前回よりちょっと長めになってしまいました。多分、もののけ持ち出したから……。だって誰も言わないし、言いたかったんだもん!
またまたお付き合いいただき、ありがとうございました! では、次の更新の時にお会いしましょう~。
シン・ゴジラがみせてくれたのは、何だったのか【初代とシンが憑依する】
大変ご無沙汰しております。とんです、生きていました。
スヌード企画やら持たない生活企画やら、全部頭打ちで放置して、すみませんでした。(全力土下座)
突然のときめきメモリアルGirl’s side3rdStoryという所謂乙女ゲームに、嵌まり込んでおりまして、、そしたら今度は、急にシン・ゴジラに心奪われていました。奴はルパンでした……。
というわけで、久しぶりに突然『シン・ゴジラにぶん捕られた私のハートの行方について』の考察をぶっこもうと思います。異論は認めません。
※※※そもそも、鑑賞済みの方を対象、もしくは今の時点で見に行く気ないし~、ネタバレかもんwwという方にしかオススメできない記事です。おいおい! ぬるっとネタバレすんなよ⁉ となられる方は、自己責任でお願いします。※※※
(©東宝 画像お借りしました)
シンゴジラ公開が発表になった時、「またエヴァに頼った映画業界の必死の一手か~」くらいに思っていました。庵野監督を起用すれば、ある程度のファンが来ると見越したのだろう、と正直東宝を冷たい目で見ていました。
それが実際公開されると、大して宣伝が打たれるでもないし、Twitter上では誰もネタバレしないのに、大盛り上がり。中でも「人間ドラマや恋愛要素といった”女性好きする“ポイントが、一切排除されている。だけど女性を含め多くの人たちは充分楽しんでいる。じゃあ、マスメディアが言う『女性向け要素』ってなんなの?(笑)」といったツイートが目を引きました。
更に、「3.11を経験した日本人(在日外国人含む)だからこそ肌で感じることができる部分を、あえて一切説明していない。だからこそ、切に胸に迫ってくるし、『現実vs虚構』というテーマが活きてくる。逆にそれ以外の人にとっては、つまらないかもしれない」といった内容にも、心惹かれた。そうして毎日サブリミナル効果のように、Twitter(ツイ廃してたので)の刷り込みにより、「見たいかも、見たい、絶対見たい! 見゛だい゛ぃいいい!!!!!」と恋い焦がれていったのです。すごいですよね、その間にたったの一度もテレビCMで見てないんですよ? (私が見てないだけかもですが)いや~私、Twitterって怖いっ! 身近にあり過ぎて、スッと懐に入って居座るんだもん。
さて、私が恋した『シン・ゴジラ』を初めて見たのは、少し集客も落ち着き始めた9月中頃。
場所はなんと、極上爆音上映で有名な立川。そう、鑑賞済の方はニヤニヤされる、シンゴジ聖地のあの、立川……! 見終わった後、なんて贅沢なんだ、と幸福を噛み締めました。。
そんなこんなで特撮マニアでもミリオタでも内閣腐女子でもない私による、通算3回鑑賞した『シン・ゴジラ』のなんてことのない考察感想を、気が済むまでやろうと思います。
だって、
私は好きにした、君らも好きにしろ
にしていいんでしょ?(ニヤニヤ)
【鑑賞一回目】
冒頭の通称蒲田くんこと第一形態ゴジラが、蒲田の街を這いつくばって襲うシーンは、記憶が呼び覚まされて自然と顔を歪めました。もちろん、思い起こされるのは、東日本大震災のあの津波の映像。もうこのシーンの時点で、虚構(ゴジラ出現)に取り込まれて、現実と脳が錯覚を起こしていたのでしょう。逃げ惑う人々、川から押し寄せてくる船の群れ、とにかく辛かった。
「劇中で人間の死を軽く扱っている」という批判もあるようですが、私は瓦礫の山と化した大田区を参る主人公たちが目にする、被災した人のはみ出した足が、語らずともすでに知っている感覚で補完してくれていたと思います。
その後も「人の死」は、間接的な表現で一瞬のシーンで記憶に触れて回っていきます。立川に辿り着けなかった巨災対メンバーの「廃棄」と貼られたPC、恐らくご家族を亡くした森課長の表情、その森課長の顔を窺う安田くんの真っ赤な潤んだ目。
本来3時間の内容を2時間強に収めたため、端折られたシーンもあると思いますが、「人の死がこれだけ身近にあること」を誰よりも知っている私たちに、庵野監督はあえてリアルな一コマを見せることで、よりその死を悼んだのではないでしょうか。
そして美しさと恐怖が一体になった都心での放射能吐射シーンは、もう涙が流れて仕方なかった。恐ろしいものを見た時、人は目を離すことができず、釘付けになってしまう。これも、3.11で経験したことでした。
初めは日本国家らしく、責任逃れ、事なかれ主義でうんざりするほどリアルなエラい大人たちも、肝を据えて、国を守る決意を固めた頃、皮肉にも失われてしまいます。(内閣総辞職ビームとはよく言ったものです)
ここでついに、「ゴジラは放射能を噴く」ことがわかり、3.11に福島第一原発事故とリンクします。内閣総辞職の前にも、政治家たちはゴジラより原発の心配をしていました。まさか、巨大不明生物自体が、一つの生きる原発炉であることも知らずに。この作品は「円谷英二が誕生していなかった世界」であるそうで、更に3.11が起きていない世界であると思われます。そのため有事の際にすぐ原発や放射線量を心配する、という人々の思考はメタファーになっています。
こうして初代ゴジラの『戦後日本と原爆投下、止まない水爆実験』というテーマは、シン・ゴジラでは『3.11を経験した復興途中の日本と未だ解決の糸口が見つからない原発事故』という形で、タイムスリップすることなく、限りなく近しい目線で当時の観客に憑依して見ることができた。と私は思っています。決して同じ立ち位置ではなく、限りなく近い、というところが、庵野監督の目指した2016年の『新・真・シン・ゴジラ』だったのではないでしょうか。
真実=現実を追求した映像作りがリアリティを生み、新=私たちにとって既に古典的な存在であるゴジラを、現代人が新たに経験した恐怖を虚構という形で新しく具現化した。この二つの『シン』を庵野ゴジラから感じました。
そしてそんなリアリティを極めた虚構に、粛々と立ち向かう人々。決して主人公を含めて彼らは、ゴジラと闘っているわけではありません。あくまで、『駆除』に尽力しているんです。赤坂先生(竹野内豊)が「そうです、生物だから駆除できるんです」と言うように、現実で虚構に対抗し、むしろ諸外国や人間と闘います。
この作品には絶対的ヒーローも、チート主人公も出てきません。(足を引っ張るヒロインもいません(笑)むしろ、みんなハンサムウーマン……!)自分ができることを、誰のためでもなく働く人々の姿は、前線に立つ主人公や自衛隊員、作戦の準備を不眠不休で進める巨災対の面々、見えないところで頭を下げ狡猾な外交手段に奔走する政治家、官僚から、お茶を汲んでくれるおばちゃん(ベストオブ癒しイヤー)まで、本当に尊いと感じました。
冒頭で書いたように、舞台が立川へ移動後は、事あるごとに「あ、今私は同じ立川にいるんだ……!」と思い出しては、ワクワクしたり誇らしくなったりしました。普段は戦闘機が空を飛んでいても、「あ~飛んでるな~」くらいにしか感じない存在ですが、自衛隊という存在の有難みと信頼をこんな形で感じることになるとは、思いませんでした。
ここまで「これは、すごいぞ。やばい、大変なことになった!!」と感じた映画は、小学生の頃見た「もののけ姫」以来でした。残念ながら一緒に見に行った人は、あまり楽しめなかったので、その後熱く語ることができず、私としては不完全燃焼でした。。
なので、これはもう一度誰か、この思いを共有できる、あるいは喧々諤々語り合える人と見なければ! と心に誓い、帰りには二度目の鑑賞を決めました。
〈鑑賞一回目まとめ〉
- 初代ゴジラとのテーマの共有が、あの日を経験した私たちだから可能な作品だった。
- 現実と虚構に立ち向かうごく普通の『働く人』の尊さに心を揺さぶられた。
なんとこの後、リピートが一度では済まなかったんですね~~wwwww
見る度に心に刺さる箇所と感想が更新されていきました。いや、本当にすごい作品だ……。なので、この『シン・ゴジラ』考察感想記事、続きます(笑)
それではまた、次回の更新でお会いしましょう! ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました~。
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